説明責任を求めることで、自分の成長を加速させる
目次
説明責任について
最近、大事だなあと思ったことに、「説明責任」というものがあります。
10月にある人と話したことをきっかけに、「思っていることを実直に人に話すこと」について改めて意識し始めて11月を過ごしたのですがいろいろコミュニケーションをする中で「説明責任を求める」という視点で物事を見ると良いことが多いではないか?と思ったので「説明責任を求める」ことについて言語化してみます。
説明責任とは
まず、「説明責任」とは何なのか。Wikipediaには以下のように書かれています。
説明責任(せつめいせきにん)または答責性(とうせきせい)並びにアカウンタビリティー(英語: accountability)とは、政府・企業・団体・政治家・官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主や従業者(従業員)や国民といった直接的関係者だけでなく、消費者、取引業者、銀行、地域住民など、間接的関係を持つ全ての人・組織(利害関係者/ステークホルダー; 英: stakeholder)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。
引用: Wikipedia
小難しいことが書いてありますが、私は「実行する予定の具体案とその背景(考え)、その影響範囲や予定、実際に実行したあとの結果をしっかりすべての関係者に説明する必要がある」と理解しています。
「説明責任を求める」とは
今回の記事で触れたいのが、「説明責任を求める」という行為です。
これは、自分が関係者側に立ったとき、実行する予定の具体案やその考え・あるいは実行した結果の説明を果たしてもらうための行動です。
具体的には、
- ある人が実行を決定した施策の具体案について、自分がなにか動く必要がありそうだけど、内容の情報がないので問う
- ある人が「組織をこうしたいと思っている」と言っているのに対して、自分の動き方に不安があるのでどういう考えなのか問う
- ある人が自分が入っていたプロジェクトが「成功だった」と話しているが、具台的にどこが成功だったのかいまいち理解できていないので問う
のようなことだと理解しています。
自分に影響があるけどそれを考える・納得するに値する情報を持っていない場合に声を挙げる、とするとわかりやすいかもしれません。
あくまでも、異論を投げかける、懸念点を挙げるとは違います。
説明責任を求めることのメリット
タイトルにもある通り、説明責任を求めることが自分自身を成長させる材料になると考えています。なぜそう思うのか、その理由を挙げていきます。
良いこと1: 自分の説明責任能力も強くなる
当たり前ですが、その対象に強い関心を寄せて、説明責任を求めることで相手の考えを相手の言葉で直接聞くことができるため、それを分解した自分のタスクに対する説明責任の力は自然についています。
また、説明責任をしてくれた人の視座、視野、考え方を同時にキャッチできるため、一段階上の視座での説明責任をするための思考力が同時に備わっていきます。
良いこと2: 自分の言語化の成長にもなる
説明責任を求めるときは、相手が発した情報・説明を自分の頭、思考力でで咀嚼する能力が必要となります。
相手に説明責任を求めるとき、最終的には自分が持っていない情報を教えてもらうように、ストレートに相手に伝える必要があります。
相手が説明してくれた情報をしっかり整理したうえで、「自分にはどこの情報が足りないのか」「どうすればそれが相手に伝わるのか」「それが足りないことで自分がどう感じているのか」を考え、一生懸命に相手に伝える過程で、自分の考えや相手の思考を言語化して整理する能力が高まっていきます。
気をつけること1: めんどくさい奴になる
良くないこととして挙げてしまうと、少し誤解を生む可能性もあるのですが、全てを鵜呑みにしてしまうと不幸になる可能性があるため言及します。
ここで言いたいのは、「懐疑的になれ」とは違います。「あなたの言ってるここの部分に同意しきれない、そのための情報が不足している」のように重箱の隅をつつくために足りていないことを探す必要はないと考えています。繰り返しになりますが、異論を投げかける、懸念点を挙げるとは違います。
あくまでも、フラットに考えたときに自分とその相手に情報の格差がある場合であったり、自分で考えたときにも同じ説明ができる状態に持っていくためのコミュニケーションとして考えています。
懐疑的になり、議論の重箱の隅をつつくなど、行為の焦点が相手に移ってしまうと、ここで言っている良いことは享受できないと考えています。あくまで自分のため・自分の今後の行動のためという視点は忘れないようにしてください。
自然とやってしまいがちな、空気を読む行動
ここまで読んでいただいて、「よし、今後の行動に少し活かせそうだ」と思っていただいた方にに一つだけ振り返ってほしいことがあります。
それは、「空気を読んで納得する癖はついていないですか?」ということです。ネガティブな意味での「忖度していないか?」とも言うとイメージしやすいかもしれません。
私もたまに陥りますが、以下のような発想に思い当たり節がある方は、説明責任を求める機会を無意識で失っているため、注意が必要です。
- 自分ならこう考えるけど、この人が言ってるからそうなんだろう
- この業務はめっちゃ大事らしいけど、なぜ大事かは自分の言葉では説明できない。でもこの本が大事というのならそうなんだろう。
- それがいいかはわからないけど、自分は情報持ってなくてわからないし、あの人がこう言うならそれが正しいのだろう
- (なんでこうすすめているの?と質問されたときに、)あの人がこれでいいって言ってたからです
これらの考え方は、自分がステークホルダーにもかかわらず、自分への影響を理解することを放棄してしまっています。
これでは、主体的な行動はできませんし、万が一間違った方向に進んでいても、組織として気づくことができません。
ただし、「背中を預けている」パターンもあります。自分の仕事の領域外であったり、責任が明確に分かれている場合は、自身を持って任せることが全体最適であることも往々にしてあります。
健全なコミュニケーションのきっかけになる
説明責任を求めることの良いことについて、気をつけることもありつつざっと書き上げましたが、最後に1つ思っていることがあります。それは、説明責任をもとめることは、「思っていることを実直に人に話す、”健全なコミュニケーションのきっかけ”になる」ということです。
これは、副次的に享受できる良いことだと考えており、これこそが最近「説明責任を求める」行動を意識した結果として得られているなと感じた良いところになります。
相手と同じ土俵に上がるために足りていない情報をもらい、自分の考えをしっかり言語化することで、自分の考えを「フラット」に相手に伝えることができるようになります。
少しもやもやしているけど何がもやもやしているのかわからないからまあいいか、納得できないけどまああの人が言っているなら正しいと思うから流しておくか、のような些細なきっかけをそのままにしておくと、お互いに「フラット」なコミュニケーションが取りづらい状態になっていきます。
自分が説明責任を果たすためにも、フラットなコミュニケーションをできるためにも、説明責任を求めることは大事にしていこうと思います。
補遺:「考えてもわからないから聞く」行為
「思っていることを実直に人に話す」に通ずる1つのコミュニケーションとして、「情報はあるけど、自分の頭で考えてもわからないから聞く」というものがあると思います。
何かを説明されたときに「ん?ちょっと理解が追いつかなかったぞ?」「何言ってるのかわからないぞ?」ってときに、相手がどういう思考をしているのか突っ込むことです。実直なコミュニケーションが出来ていると割と発生する質問に分類されると思います。よくやってるよ!って人も多いと思います。
今回話したい「説明責任を求めること」とこれとは、少しだけ違う行動であるという整理をしています。