「嫌い」と向き合う
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「嫌い」と向き合う
11 月にふと自分にでてきたテーマとして「嫌い」と向き合うことがあった。
「嫌いな人」と聞いて思い浮かぶ人はいるだろうか。正直、自分は数人、思い浮かぶ。
「人」までいくと数人だけど、「嫌いな行動」「嫌いな言動」だと数は多くなる。
この「嫌い」「嫌だ」という感情、自分は全く向き合おうとしなかったし、その感情に気づかないようにしていた。
「嫌い」が迫ってきたら、直面する前に極力回避する行動を取っていた。
自分のことをもっと知りたい、そう思い始めてから自分の「嫌い」ってなんだろう?というところにも興味が湧いて、向き合ってみた。
その時にいくつか気づきがあったので、それをまとめようと思う。
「嫌い」は、自分のネガティブな価値観の現れなのでは?という仮説
向き合うことになったきっかけは「嫌い」は、自分のネガティブな価値観の現れなのでは?という仮説が自分の中に出てきたことだった。
「会社を選ぶ軸は?」「好きなタイプは?」「どういう家が良い?」「どういうゲームが好き?」・・・
「自分が大事にしているもの」を言語化することは日常生活をするうえでよくあると思う。
ただ、好きなものを本当に言語化するのって難しい。
綺麗事を言っているだけなのか、万人に受けるだけのものなのか、みんなが良いと言っているから良いと感じているだけなのか。はたまた本当に自分が大事にしてきた「価値観」なのか。
周りの声も気にせず、自分が好きだと思うものに正直に生きてきた人だったらそんなに難しくないのかもしれない。
けど、自分は「自分が好きなもの」もうまく言葉にすることができなかったので、なんとなく、「好きな理由」を言葉にしていた気がする。
というか、「好きなもの」と相対しても、そこまで感情が揺さぶられることは多くなかった。(し、今もそこまで変わっていないかもしれない。)
一方で、「嫌い」「嫌だ」という気持ちやそれに対するストレスはとてつもなく感じていた。
なにか汚いドロドロした黒いものが胸の奥に広がるような感覚に包まれる。
そんな自分だと余裕もなくなるし、言動も横暴になってしまうので、その感覚を忘れようと「嫌い」「嫌だ」から逃げていた。
よくよく考えてみると、「嫌い」「嫌だ」って自分が本当に「好き」「良い」と感じるものと正反対だからこそ感じているのでは?本当に自分が好きなものを言語化するきっかけになるのでは? そう考えた。
嫌いな人は自分の嫌いなところの写し鏡
嫌いな言動、行動を、逃げたくなる気持ちを抑えて考えてみた。
自分は、「人の気持ちを考えない」「自分のことしか考えていない」「他人に厳しく自分に甘い」「言ったことをやらない」というところに嫌悪感、ストレスを抱いていた。
1 つ 1 つ、具体的な人間とか、場面、どういう行動や言動だったのかを思い出して、向き合ってみた。
思い出すとイライラするし、思い出したくないな、という気持ちがすごいでてきた。多分今まで忌み嫌っていたからこそだと思う。
でてきた言葉を読んでいくと、だんだんと「それって自分にもそういう面があるからでは?」ということに気づいた。
ふとでてきた仮説から「嫌い」に向き合ったけど、自分が書いていた言葉たちは、いつの間にか自分の嫌いなところだった。
嫌いな人、は自分の嫌な部分の写し鏡、という言葉を思い出した。
「あいつはこういうところがあるから嫌いだ」そう吐いていたけど、ちゃんと向き合ってみるとそんな側面、自分にもたくさんあるじゃん、と恥ずかしくなった。
自分の中にある自分の嫌なところを客観的に見てしまうと、自分そのものを否定されている気持ちになるから、「嫌い」と向き合うことを「嫌だ」と逃げてしまっていたのかもしれない。
他人を赦すことで自分が赦される
自分にもその部分があると思うと、他人の行動に対して、「なんでその行動、言動をしてしまったのか」という背景情報が途端に見えてくるようになった。
ついついやってしまう自分の行動も、背景には何らかの理由があるしロジックがある。
多分、その人も完全な悪人ではないし、何かしらその人なりのポリシー、価値観があってその行動をしている。
それを真っ向から「嫌い」と判断するのは間違っている、そう思った。
もちろん、「人の振り見て我が振り直せ」と言われるようにその言動や行動をみて内省することも大事だと思う。
けどそれ以上に、他人に厳しすぎると、自分の行動に嫌悪感を憶える頻度も増えてしまい、息苦しくなってしまうな、と思った。
「他人を赦すことは自分を赦すことにつながる」
そう思った瞬間に、なにか自分の中にあったしがらみが解けてすごい心が軽くなった気がした。
自分の心が軽くなるなら、どんどん他人のことを赦そう、そう思った。
自分がなぜか作ってしまった「こうなりたくない」「こうあるべき」という偶像
「嫌い」を言語化するうえででてきた中で「嫌いな自分」ではないものが 1 つあった。
それは「仕事に感情を持ち込む」だ。
自分は、仕事に感情を持ち込むことが嫌いだった。
例えば、”特に根拠もロジックもないけど「なんか自分が好きじゃないから反対」”みたいなことを言う人だ。
思い返すと、自分は「感情を抜いて仕事をすること」を美学にした価値観で仕事をしてきた。
心底、感情で仕事をする意味がわからなかった。ロジックが作れるものを作らずに感性だけで判断するのはもったいない。そう思っていた。
「仕事に感情を持ち込む人」と相対したとき、自分はその人と対話をすることができなかった。
なぜかは考えたことはなかったけど、1 つ答えが見つかった。
今まで言語化できていなかったけど、その人の主張に反論するためには「『仕事に感情を持ち込む』ことが嫌い」という価値観をもとに戦うしかなかったからだ。これはロジックなどなく完全に「感情」だ。
自分が作り上げた「感情を抜いて仕事をする」の偶像のせいで、「仕事に感情を持ち込む人」と対話をすることができなくなってしまっていた。
自分はなんで仕事に感情を持ち込みたくなかったのだろう。
今思えば、きっとどっちも会社や組織を潰したいと思ってその発言をしているわけはないし、おそらくその人なりの解釈や価値観が胸のうちにはあったのだと思う。
でも、自分は「仕事に感情を持ち込んだ」瞬間にシャットアウトして「あの人とは仕事のスタンスが合わない」と自分の殻に閉じこもっていた。
自分が作り上げた「感情を抜いて仕事をする」の偶像のせいで、「仕事に感情を持ち込む人」と対話をすることができない自分を見せたくなかったのだと思う。
ここまで忌み嫌っていた理由の 1 つに、自分にはできないことができていることに対する妬みもあったのだと思う。
自分が無意識に我慢して殺していた「仕事に感情を持ち込む」という姿で働いているのだから。
馬鹿らしい。なんて自分勝手なんだろう。
「嫌い」と向きあったら、「嫌いな人」がいなくなってきた
「嫌い」と向き合ったら、結局その「嫌い」は自分が作り上げたなにかであったり、自分を苦しめているなにかだった。
嫌いと思うことで自分が息苦しくなる、ということに気づけたのはとても良かった。
今回向き合った「嫌い」は、主に会社の中で起きるようなもので、なんらかロジックがあったり、社会的な倫理観の上で成り立っている「嫌い」なので、向き合える事ができたと思う。
世の中、皆さんの中には「嫌い」では表せられないような、絶対に向き合いたくないトラウマ的な「嫌い」もあると思う。
そういう「嫌い」には無理に向き合う必要はない。
自分は、世の中では普通にやっているような、簡単に向き合えるような「嫌い」にも向き合っていなかった。
今回向き合ったような「嫌い」は、起きてしまうことはしょうがないし、きっとその人も悪意を持ってやったわけではないのだから、なぜそうなってしまったのか、なぜ自分がそう思うのかを寄り添って考えられるような、そんな余裕を持つことで、人生を楽に生きたいと思う。